本文原發表自:https://taichustory.blogspot.com/2020/03/tengaitenjapanese.html
過去100年の台中:天外天劇場の文化資産価値の研究(転載歓迎)
原文/台中文史復興組合;翻訳/佐々木 清美
謝謝佐佐木清美小姐,翻譯我們撰寫的天外天資料為日文版本「過去100年の台中:天外天劇場の文化資産価値の研究(転載歓迎)」
以下為佐佐木清美小姐的聲援訊息:你好,我是一个喜歡老建築物的日本人。前幾天才知道台中天外天劇場要拆除的信息,雖然有很多日本人對台灣的老建築,但是關於此一大消息在日本基本上沒有報道。我把你們的“過去一百年的台中:天外天劇場文化資產價值研究”翻成日文讓廣泛日本人知道目前古蹟的危機。請你們允許把此文章日文版發表在facebook上。(由於時間的關係不知是否有翻錯的部分。希望看懂日文的人指正。)
#原中文版刊載於:https://bit.ly/38XpIfT
“八十年前の台中国家歌劇院を残すことは、これまでの百年を守り、台中の人々の記憶にこれからの百年を贈ること ——天外天劇場”
この文書は台中市政府文資審議委員会の要求に応じ書き表したものです。先の2014年に提出した論拠は「歴史資料の列挙」に過ぎなかったことから、2016年のこの文書は、天外天の文化的資産価値を対象に研究と論述をしたものです。
一、天外天劇場 文化資産としてのこれまでの経過の記述と補足資料についての説明
1. 世論の関心:台中文史復興組合(以下本組合とする)は2014年3月にインターネット上で天外天劇場保存キャンペーンを開始し、一般の世論の関心を劇場の保存に向け、議題とした。この年7月「天外天劇場」乙案(以下本案とする)は台中市政府「103年度第3次古蹟歴史建築集落及び文化景観審議委員会」の審議を経て「暫定的に古蹟とし、改めて所有権社と調整のうえ調査研究を行う」ものと決議された。本組合は同年9月に本案文化資産の資格レベルであることを報告し、さらに「天外天劇場古蹟指定資料」(2014年9月5日)を台中市文化資産処に提出した。しかし、本組合が提出した上記資料は客観的歴史資料であって、文化歴史的価値の具体的論点を論述したものではなかった。2016年3月に本組合が提出した申請資料とは性質が異なるものであった。
2. 審議の経過と結果:本案は「104年度第1回古蹟歴史建築集落及び文化景観審議委員会」(以下文資審議とする)において、「古蹟または登録歴史建築指定に賛成の委員は2/3に満たなかった」ため本案は登録せずと決議、ならびに暫定的古蹟の資格を喪失するものとされた。2015年8月に天外天劇場の取り壊しの情報が伝わるとともに再び世論の関心が高まり、本案は改めて文化資産審査手続きにはいった(本組合が新証拠資料を提供したことに因ったものではない)。本案は同年の第6回委員会の会議において、「審査せず」と決議されてしまった。
3. しかしながら本案の審議の経過と会議記録を概観すると、たとえば104年度第1次の文資審議において委員の意見はさまざまで、登録・指定に賛成する者と価値なしとする者いずれもおり、本案の調査、研究と測量を実施するよう提案する複数の委員もいる等さまざまで、本案の当時の資料は本案の特殊性を示すことができていないことがはっきりと見て取れたため、よって本案の調査報告となった。本案後、台中市文化資産処は永明国際設計有限公司に委託し、「天外天劇場建築物測量及び簡単な歴史調査」(以下本案調査報告)を実施、104年度に終了した。本組合は文書番号「府授文資古字第1050061508号函」により上述の本案調査報告を入手した。
4. 天外天劇場は2016年3月また取り壊しの危機を迎え、本組合は同年3月に再度インターネットにて天外天劇場保存キャンペーンをよびかけるとともに、同月14日にあらためて本案について台中市文化資産処に申請を提出した。本組合が今回提出した申請事由は天外天劇場の価値を具体的な「9つの生きている証拠(“九大証拠”)」として論述することにあった。台中市政府が同月23日に本案の「文化資産再提会討論案第一回特別部会(以下本案特別部会会議)聽取ダイジェスト」を招集、本組合メンバーがこの会議に出席し、会議で本案の申請資料について簡潔に説明し委員からの意見、指導を得た。今回の特別部会では「業務単位が本案調査報告を本組合に提出後、あらためて本組合より新事実補足資料を提出すること」と決議された。
5. 本組合は2016年5月9日にこの〈天外天劇場文化資産審議事実資料〉を提出、その執筆方法と挙証方法は《古蹟指定及び廃止審査弁法》第2条、《歴史建築登録廃止審査及び輔助弁法》第2条の規定に拠るものとし、古蹟あるいは歴史建築の審査基準については「歴史、文化、芸術的価値を有する」、「重要歴史的事件または人物との関係」、「各時代の地方の建造技術流派の特色を表現している」、「稀少性があり、再現しがたい」、「建築史上の意義を有し、再利用の価値及び潜在力がある」、「歴史文化的価値がある」、「地域風貌または民間芸術特色が表現されている」、「建築史または技術史的価値を有する」、「その他古蹟的価値を有する」もの、等等が判断標準となる。
6. 本資料はまた執筆過程において2015年3月本案特別部会会議の記録、本案調査報告等の関連する文献を引用するとともに、関連文献、委員の意見の歴史的客観性を考証し、本案の申請事由の重要な証左とした。
二、本案新事実の補足資料
1. 本案新事実の解説:本組合は2014年9月、台中市文化資産処に「天外天劇場古蹟指定資料」を提出したが、この資料は関連歴史資料の羅列であり、具体的な「申請事由」ではなかった。加えて本案特別部会会議中、劉超驊委員が「(本組合が提出した九大証拠の)内容は文化資産価値に高めるまでの新事実を挙げているとは言えず、もし前回の審議で杜撰さがあったならば疑問を提起すべきである」と指摘、よって今回の新事実補充資料は、先に本組合が提出した「天外天劇場古蹟指定資料」を参考としたのに加え、本案調査報告も参考とした。執筆内容は関連法規にある古蹟、歴史建築相関審査基準のほか、前回の審議で軽く扱われたところについて具体的に疑問を提起した。以下、具体的に列挙し説明する。
2. 天外天劇場の歴史の概要:天外天劇場はその前身は漢人有力者呉鸞旂一族による私的所有の戲院であった註1(1919年)。1930年代より呉子瑜が《台湾新民報》の天外天劇場建設の取材をうけたことにより註2、劇場は1933年9月13日劇場許可を取得註3、1935年末に竣工し翌1936年1月1日より営業を開始した註4。1946年呉子瑜は台北の「梅屋敷」(後に新生活賓館と名前を変え、現在は国父史蹟館となっている)を修築するため二百万元近くを出資、子供の呉京生、呉燕生が経営にあたったが註5、聞くところによると呉子瑜は修築費用をまかなうために天外天劇場を売りに出し、のちに駅裏の漢人有力者王博が経営にあたったという。
圖一:臺灣日日新報 19260512南臺中建 劇場豫算萬二千圓 |
圖二:臺灣日日新報 19291224 臺中 演青年劇 |
3. 劇場規模と建築様式:記事によれば、天外天劇場の建築と規模はその当時最大であり、全台湾でも規模は最大、最も華麗な民営のヨーロッパ式戲院であった。680の座席註6を有し、円形の劇場、建築形式と装飾・彫刻の技巧も精緻であり、内裝設備も斬新でいずれも全台湾で初めてのものであった註7。今の基準でも、80年前の台中歌劇院といっても過言ではない。豊原の有力者張麗俊が劇場の落成前に参観し「その規模の壮大さ、華麗さは東京の宝塚と同じほどだ」註8と激賞、傅錫祺はその漢詩〈天外天上作重九〉の中で天外天劇場は中国四大名亭である北京の「陶然亭」註9に比肩するとも形容している。日治末期から戦後初期に、顏水龍は天外天のために「エジプト風壁画」註10作品を残している。本案調査報告においてはまた「天外天劇場の全体的景観について、明らかにヨーロッパ式劇場装飾を取り入れており、ヨーロッパの劇場ほど華麗ではないが優美さを失っておらず、加えて中国的解釈の現れ」と指摘しており註11、建築上の特色についてはアール・デコ註12方式の装飾建築が各処に見られ、天外天劇場は建築様式において独特性を有していることは明らかであることは先にも述べたが、本案は古蹟・歴史建築審査基準である「各時代の地方の建造技術流派の特色を表現している」、「建築史または技術史的価値」等の点において合致していると言え、また台中最後の日本時代の戲院であり「稀少性があり、再現しがたい」という特性を有している。(関連する図の詳細は本文p.30-41参照)
1. 《灌園先生日記》1948年03月29日日記内容より。林獻堂著、許雪姬編、中央研究院出版。許雪姬は注釈の中で天外天劇場についてこう説明している。「(天外天劇場)は台中市桜町にあり、一九一九年に設立。もとは富豪呉鸞旂の敷地中庭園に建てられたプライベートな劇場で、家族や友人などの娯楽に供されていた。一九三五年呉鸞旂の子呉子瑜が劇場を拡大し営業用の商業劇場にするとともに大甲の洪棟樑、彰化の謝欽漢等と合弁経営とした。工事は三年、費用は十五万円近くを要し、一九三六年一月一日に開場式が行われたが、これは3階建ての鉄筋コンクリート建築で、内装外装ともに当時の最流行建材、装飾が用いられた。」
2.《台湾新民報》1933年9月15日掲載の報道には〈臺中市吳子瑜氏籌設近代式娛樂館經費按七萬三千圓〉(〈台中市呉子瑜氏近代式娯楽館建設を計画経費は七万三千円〉)と題されている。詳しくは図五参照。
3. 《台湾日日新報》1933年9月14日、「南台中櫻町に映畫演藝の劇埸新築同地の資家呉子瑜氏が七万餘圓を投じて」、詳しくは図四参照。
4.《台湾日日新報》、1935年12月9日(昭和10年)第5刷。
5.《呉鸞旂墓園研究規畫》、p.88-89、台中県政府文化局、2005年。
6. 日本時代の天外天劇場内座席数の考証、については、本案特別部会会議記録をみると、張雅銘委員会議の第二項にて「2.事證5:ここでいうところの室内情境(例:座席数650)の具体的実証は何に拠るか?」との言及あり。本組合は参考《台湾新民報》1933年9月15日の報道(図五参照)、本案調査報告、及び林良哲編《台中電影伝奇》(p.48)を参考としているが、《台》では座席数は680、本案調査報告ならびに、《影》の記載では650とある。上述資料所載の座席数の差はそれほど多くなく、いずれも天外天劇場は当時において座席数がかなり多い公共の劇場であることの説明になっている。
7. 上述天外天劇場内裝の描写については、《台湾新民報》1933年9月15日掲載の報道を整理した。表題は〈臺中市吳子瑜氏籌設近代式娛樂館經費按七萬三千圓〉(〈台中市呉子瑜氏近代式娯楽館建設を計画経費は七万三千円〉)第2刷、詳しくは図五参照。
8. 上述の豊原の漢人有力者張麗俊の話は《水竹居主人日記》1935年12月03日日記より。許雪姬、洪秋芬、李毓嵐編、中央研究院出版。
9. 1936年10月23日天外天劇場で開催された「怡園詩会」では、有力者傅錫祺、漢詩〈天外天上作重九〉を贈っている。「文人心以好奇傳、星想摘来雲想穿。遺世何妨出天半、登高不必限山巔。樓頭刻意論聲調、足下酣歌雜管絃。回首題糕燕市日、一亭低小笑陶然。」詩末には傅氏によりつぎの注釈がつけくわえられている「北京の近城にはかつて高く登れるところがなかった。ただ陶然亭が十数尺ほど、重九を作りみなここに集まった」、傅氏は天外天の上に上り有力者たちと集まってこの詩を贈ったことからすると、傅氏は詩の中で「天外天劇場」と「陶然亭」を比較したとみられる。この会に出席した有力者はそのほか傅錫祺、張玉書、張棟梁、林仲衡、王箴盤、呂蘊白、張麗俊など。
10. 本組合は長年南台中(台中駅裏地区)に生活している広告職人王水河の聞き取りでは、彼はかつて「台湾工芸の父」顏水龍教授が天外天劇場に「エジプト風壁画」を制作したと話していた。王水河の妻はかつて天外天劇場の切符売りであった。
11. 《天外天劇場建築測量及簡易歴史調査》、p.12、2015、台中市文化資産処。
12. 同上註、p.11。
4. 天外天劇場は台湾にわずかに残されている齋藤辰次郎註13の作品である。齋藤辰次郎は台中市役所の技官であった。齋藤辰次郎の別名義の娯楽館(成功戲院)も今はなく、齋藤氏は同時に台中神社や彰化銀行本店の施工建築師でもあった。齋藤辰次郎は1932年に台中市役所営繕課課長(一説によると土木課課長)高等官を退職し自営業を始め、事務所は台中市老松町四番地之七に置いた。新聞記事によると「十三日台中市楠町呉子瑜氏は当局から常設映写館兼劇場の建設許可を得たが、建設住所は楠町四丁目呉氏宅の裏で、聞くところによるとその設計は全島中に名を響かせる大劇場……その設計は元市技師の齋藤辰次郎氏の手により、アメリカ式劇場案をもとに、東洋にあった施設を加え……」註14とある。天外天劇場が許可を得た日は1933年で、1932年齋藤氏はすでに退職して自営業を始めていることから、上述の報道内容は事実である。(関連する図の詳細は図十三、図十九~二十三参照)
5. 上述の内容を受けて、本組合考察史料から次の二点がわかる。
l 本案建築設計は齋藤辰次郎が建築設計したものであり、また齋藤氏は同時期に劇場建築娯楽館の設計建築師でもあった。齋藤辰次郎が台湾にのこした代表的作品は、古蹟・歴史建築審査基準の「各時代の地方の建造技術流派の特色を表現している」、「建築史上の意義があり、再利用の価値及び潜在力がある」、「地域の風貌または民間芸術の特色を表現」等の条件を備えているといっていいだろう。
l 本案は台中最後の日本時代の劇場建築である。日本時代に五か所あった劇場建築の台中座、楽舞台、娯楽館、台中座分館、天外天劇場註15のうち現在ただ天外天劇場を残すのみである。さらに娯楽館は天外天劇場と同じ建築師の作品であるが娯楽館は取り壊されすでにないため、天外天劇場は古蹟・歴史建築審査基準の「稀少性を有し、再現しがたい」という特性に合致しているといえる。
13. 齋藤辰次郎の名前について、本案特別部会会議中張雅銘委員の第四項意見で次のようにある。「人名及び職務部分に違いがある、ここの『齊藤辰次郎』は『齋藤辰次郎』ではないか......」調査の結果、傅朝卿等の研究者によると「台中娯楽館」建築師時は「齊藤辰次郎」とあり、本案調査で本案建築師時は複数「齊」(p.5、31)と書いている。中央研究院「台湾総督府職員録システム」にて検索すると、「齋藤辰次郎」、「齊藤辰次郎」いずれも検索結果としてでてきた。《彰化銀行百年史》所載の「台中総行新建行舍工程」写真(2005年出版、p.44)では、写真のなかの工事現場の竹垣に「齐藤辰次郎建築事務所」の文字があった。「齋」、「齊」いずれもこの「齐(訳注:日本ではこの「斉」)」という日本漢字の翻訳の問題であり、研究者の判読はそれぞれであるがいずれも同一人物であり本組合提出の資料の誤りではない。
14. 同註7。
15. 台中座は1902年建設、大正館(高砂演芸館)は1910年開設、1913年台中座に買収され合併、名称を「第二台中座」と改名した。楽舞台は1919に設立、娯楽館は1931に開設、天外天劇場は1936年に竣工となった。上述の整理は《台中電影伝奇》p.35、2000年、林良哲著、台中市政府文化局出版。
6. 豪華な現代的戲院として天外天劇場は台湾で一番早くロゴを使った劇場であり、劇場開幕記念品(盃、図四十二)、階段と欄干の鋳鉄の飾り枠(図四十三)、ならびに劇場二階の壁面装飾(図三十四)に応用された。盃は呉家の後代の収蔵品であるほかはいずれも建築物本体に見られるものである。ロゴは天外天劇場の娯楽空間計画や営業上非常に高い弁別度があり、台湾娯楽の先駆とも称され、古蹟・歴史建築審査基準の「地域の風貌または民間芸術特色を表現している」、「歴史、文化、芸術的価値がある」、「稀少性があり、再現しがたい」という条件に合致している。
7. 大衆性を有する駅住民生活エリア:1945年の終戦後、天外天劇場は駅裏住民の重要な生活エリア、また旧市区の重要な娯楽空間そして消費空間となり、市民の大切な記憶を残す場所、そして大事なアート創作の目標となった。旧市区住民の聞き取りでは、天外天劇場に関する描写が多くみられ、たとえば小さいころから劇場近くにすんでいた蔡さんは、戦後天外天劇場は「国際戲院」と改称され、周辺は歓楽街が拡大されたものの近隣の辻々には夜市、屋台がならびとても賑やかだったと語った。もう一人の住民康さんは親族の葬式の写真を出してくれたが、それは1970年代天外天劇場の写真(詳しくは図二十四、二十五参照)で、すでに太源冷凍廠に改造された劇場の周囲はとても賑やかだったと教えてくれた。また多くの住民は天外天劇場が取り壊しのおそれがあることに非常に残念がっており、それをとても大事な生活の記憶とみているのに加え、その建築の特殊性、芸術価値を認めている。また歌手羅大佑の曲〈火車〉註16の作詞者李坤城は本組合の保存運動に際し、天外天劇場、駅裏は彼が育ったエリアでありまた大事な記憶のエリアで、彼に天外天劇場を歌詞に書くよう促したのであるが、歓楽街の設立がまた特殊な記憶になったので、歌詞の中に「男児の天外天」という一語を入れた註17とfacebookに書いた。天外天劇場は戦後の駅裏住民の重要な集合的記憶となっているのは明らかである。
16. 羅大佑〈火車〉アルバム《原鄉》収録(1991)。
17. 李坤城〈年少時代南台中的電影院(少年時代の南台中の映画館)〉2016年3月25日発表。詳細はリンク参照。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1149616091730031&id=100000449530643&pnref=story
8. 天外天劇場は台中の都市植民における不均等土地開発の重要な証拠である。以下分けて述べる。
i. 省城の歴史概要:1889年(光緒15年)当時の台湾巡撫劉銘傳が省都を中部に置くとともに台湾中部(現在の台中旧市区)に台湾省城を建設、この工事は1892年に劉銘傳が報告のため帰京したことにより中断、次いで着任した巡撫邵友濂は台北に遷都したため、台湾省城はわずかに北門、小北門から西門一帯の城壁を完成させたのみで、日本統治下での市区改正で取り壊され、一部の城門建築が公共設施として使用された。註18
ii. 日本市区改正と不均等土地開発:日本は台湾領有後測量をおこなった。台北の市区改正(1900年6月)よりも早い1900年2月に台中の現在の旧市区で市区改正を実施、アジアで最初の都市計画となった註19。都市発展の過程において、駅前区域は商業区、公有設施、学校、市場、劇場建築、官署建築註20に計画され、日本人のための主要な生活エリアであった。また駅裏区域は主に物産加工業、物産運輸業、貿易業註21が主で、当時の漢人の主要な生活エリアであった。上述の通り、駅前・駅裏区域は市区改正、縱貫線鉄道敷設により、日本殖民統治下において都市の不均等土地開発現象がもたらされ、駅前は人々の注目に値する政治・商業の中心地に、駅裏は物産運輸及び加工業の産業集積地となったことは明らかである。ランドマークの分布と産業配置により市区改正実施で日本人と漢人の生活エリアが鉄道敷設により二つに分かれたが、これは殖民統治が推し進めた不均等土地整備の結果である。
iii. 日本の殖民の遺産は台湾人の都市に対する見方に影響:1945年の終戦に至るまでの50年の長きにわたった日本統治が終わり、台湾統治は中華民国政府が引き継いだ。駅前・駅裏区域は日本時代の都市開発方式をつづけ、駅前はやはり政治・商業の中心、駅裏も物産加工、運輸貿易産業を中心であった。事実に基づいていえば、戦後の台中旧市区が衰退したのは紛れもない事実であるが、駅前・駅裏の衰退過程と時代の流れは別次元の話で、駅裏は早くも1970年代に国道一号建設により道路輸送時代が興こり、鉄路輸送は日に日に衰退していった註22。駅前は遅く1990年代、都市の中心が西へ移ったこと、また七期に計画された新市政中心再編により衰退していった。日本殖民時代の不均等な都市発展は1945年終戦後から中華民国政府に影響し続け、駅前・駅裏のことなる都市の印象を形作った。今日に至るまで台中市政府はしばしば「中区再生」を強調している。たとえば、前市長胡志強は「百億(元で)中区を救う」註23と表明したし、また林佳龍市長も着任時「中区をすくえなければ市長である意味がない」註24と述べ、また胡前市長の在任時に都市発展局による民間学術単位を「中区再生基地」の名称で設立させている。1900年代に一体計画された台中旧市区、最後には「駅前重視、駅裏軽視」は、ただ日本殖民の遺産が台湾人の都市に対する見方に影響を残してたのみならず、都市の政治・経済的資源分配の格差をもたらしたことは明らかである。
18. 如1903年に建設された台中公園内の「望月亭」は日本の四阿(あずまや)。
19.《1945年以前台中地域空間形式之轉化-一個政治生態群的分析》(1945年以前台中の地域空間形態の転化)、賴志彰、1991、国立台湾大学建築與城鄉研究所修士論文。
20. 商業区計画については駅前新盛橋通(今中山路)はスズランの街灯で飾られ商売繁盛で、「すずらん通」の美しい名前で呼ばれていた。現在までも中山路両側には大量の往年の広告看板が残されている。公共設施では市民館、公会堂等の市民の集会場所があった(現在すべて取り壊されている)。市場は、第一、第二、第四市場はいずれも駅前にあった。台中公学校、幸宮小学校といった学校、劇場建築、如娯楽館、台中座(本館と二館)、楽舞台等、いずれも駅前にあった。官署建築は台中州庁、台中市役所、大屯郡役所等。
21. 物産加工業は砂糖工場(帝国製糖株式会社)、酒造工場(台湾総督府専売局台中酒工場)、物産運輸業、貿易業は可見駅裏に多くの倉庫が設置されているのがわかり、また多くの青果組合の成立は東区復興路四段に「文青果組合」建築がみられる。鉄道倉庫は本段地方産業発展史の「そこにある証拠」である。
22.国道一号は1978年12月28日全線開通し、台湾の重要輸送交通網となり、台湾は自家用車中心の交通手段へと移っていった。
23. 〈「百億救中区」胡志強:變更都市計画〉、自立晚報、2008年6月2日、http://www.idn.com.tw/news/news_content.php?catid=5&catsid=4&catdid=0&artid=20080602ah003 より
24. 〈林佳龍発豪語:不能救中区 就不配当市長〉、民報、2015年1月21日、http://www.peoplenews.tw/news/00710b4c-5191-4876-9268-94b51db065ec より
iv. 天外天劇場は終戦後台中の不均等都市開発の重要な証拠である:終戦後、天外天劇場は駅裏の有力者王博の経営にゆだねられ、名称を「国際戲院」に変更、その後1975年経営不振により「太源冷凍廠」に転用、1990年代には「国際鴿社」及びエビ釣り堀が設置され、最後には「国際駐車場」として使用されるに至り、元の劇場用途からははるかに遠ざかってしまった註25。1956年、台中市議会では天外天劇場の裏側に歓楽街を設置することを検討、現地住民や学校が反対する一方で市議会議員、区役所が贊成することで市議会にて設置計画が通過し、駅裏に続く道には「爬天橋」とよばれて駅裏に歓楽街の悪名がさずけられることになった。上記に述べた通り、天外天劇場は駅裏区域の都市開発の栄枯盛衰の証拠であり、一緒に都市の変遷を経験しただけでなく、劇場本体の盛衰史がまさに駅裏盛衰史であるといえる。
v. 本案調査報告で「本案(天外天)基地は以前の台中駅裏地区にあり……基地前方には台中駅の倉庫群、周囲の市街は駅前のような商売と密接な関係にあるのとは違っている。その北側は帝国製糖株式会社所在地、隣接する南側には鉄工廠、天理教教会等で、いずれも著名な歴史ランドマークといえるものはない」と指摘している註26。先の数点で述べたように天外天劇場の所在する駅裏区域(一時は「南台中」とも呼ばれた)は、産業の面からいえば多くの青果組合会社、帝国製糖株式会社及び鉄道相関運輸産業、また漢人有力者が住んでいた邸宅の面からいえば駅裏とはすなわち諸有力者が住んでいたところで、商談事務のサロンであり、社会の理想や抱負を抱きまた実践したところで当時の駅裏の重要なランドマークと言える。地方研究、地方歴史の記述の角度からすれば、もしこの時代の歴史が欠落してしまえば、旧市区については日本政府が重視した駅前のみの理解にとどまり、これと一体の対をなす駅裏地区を欠いてしまうことになり、非常に残念なことである。本案調査報告の「いずれも著名な歴史的ランドマークと言えるものはない」との一語は、駅裏の歴史に対する大きな認識違い・誤解であり、筆者の意識が日本植民遺産の影響を受けている証左である。
vi. 上述したポイントのとおり、天外天劇場は台中都市殖民の不均等土地開発の重要な証拠である。
25. 上述の天外天の終戦後の沿革については《台中電影傳奇》p.112-116より整理。2000年、林良哲著、台中市政府文化局出版。
26. 《天外天劇場建築測量及簡易歴史調査》、p.6、2015、台中市文化資産処。
9. 天外天劇場は駅裏台湾人の脱植民地・反抗行動の重要な象徵である。以下分けて述べる。
i. 駅裏は日本時代の漢人有力者の重要な生活エリアであった。(詳しくは図二十七):1900年の市区改正後の駅裏は当時の漢人有力者の重要な生活エリアで、たとえば天外天劇場東側は呉鸞旂邸、後方は林烈堂邸、信義街、大智路口附近には瑾園(現存、林子瑾邸)があり、蔡蓮舫は駅裏に丸山旅社註27を経営し、のちに宅邸とした。このほか多くの有力者が呉鸞旂邸内の怡園、天外天劇場で会合を開き、詩を吟じ、観劇をし、さらには「全島詩人大会」が何度も怡園にて開催されたと書き記しており、中部から起こした重要な漢詩詩社「櫟社」もまた天外天にて会合を開いている。天外天劇場という場、つまり台中駅裏は当時の台湾社会で活躍した漢人有力者の重要生活エリアであることがわかる。
ii. 駅裏の漢人有力者生活、反抗行動と駅裏の具体的なつながり:呉鸞旂邸は天外天隣にあり、林烈堂(一中創設の先賢)の南台中邸宅は天外天うらの和平街、林子瑾(興中会に入り黄興とともに革命に参加、中華民国国籍に帰化した初めての台籍エリート。主編「台湾文藝叢誌」で住居がその発行所であった)邸宅は信義街にあった。蔡蓮舫(一中創設の先賢)邸宅は駅裏にあり、丸山旅社を改装して住居とした。上述の数名のうち蔡蓮舫、林烈堂とそのほか三人は台中一中創設者の五人であり、台人中学教育のために土地・資金を出している註28。1911年に梁啓超を招待し台湾に来た林獻堂は《灌園先生日記》のなかで南台中訪問時は詩を吟じ、酒を飲み、病気を見舞い、観劇するなど何度も言及しており、南台中有力者との往来は密であった。台湾人非武裝抗日の「議会路線」の「台湾設置議会請願運動」を発起、林獻堂は天外天劇場建設後何度も出入し、関係は非常に深かった。上述の有力者はいずれも中華文化を胸にいだき、日本統治に反対していた。駅裏エリアは単なる生活エリアのみならず、議事、社会発展に関心を抱いていたエリアで、このエリアの公共性建築はわずかに天外天劇場が残されるのみで、古蹟・歴史建築審査基準の「重要歴史事件または人物との関係」という要件に合致しているのは明らかである。
iii. 劇場設立とはすなわち脱植民地・反抗行動:日本時代の劇場研究註29においては、天外天劇場の開設前、台中旧市区の娯楽生活は日本人により独占され、かつ利益獲得のためだけにあり、台湾人の啓蒙活動には役立っていなかったと指摘されている註30。この種の主張をした台湾文化協会もまた1928年の《台湾民報》上での日本当局が台湾人の劇場設立請願拒否に対し反論し、その中でこう述べている。「南台中はすでに台中の三分の一の人口を有しているが、本島人が経営する劇場はわずかに1か所で、娯楽施設は非常に乏しい。同時に、劇場の建設は住民の社会教育や土地の発展にかかわり、商業利益的な面で反対してはならない。政府は住民生活を重視すべきで、劇場関係者の独占の欲望に迎合してはならない」註31。このことからわかるように、日本人は数か所の劇場をいずれも駅裏(南台中)ではなく駅前(北台中)に置き、この点は台湾人に対する教育、娯楽生活の計画の不平等、また南台中に工業、物産運輸機能しか配置しなかったのは日本殖民者の意図的なの結果であると言えよう。
27. 〈大墩旅人梁啓超台中行腳〉の中の一文によれば、梁啓超は1911年の訪台中、中部地区の漢人有力者と会っており、有力者たちの熱い歓迎をうけた。梁は台湾省城が台中に出来上がらなかったことを残念に思い《台湾雜詩》一首を詠んだ。「蕩蕩台中府、当年第一州、桑麻隨地有、城郭入天浮、江晚魚龍寂、霜飛草木秋、斜陽殘堞在、莫上大墩頭。」当時台中市内にはわずかに5軒の旅館があるのみで、梁啓超は蔡蓮舫が駅裏で経営していた「丸山旅社」に靴を脱いだ。後の様々な文献のなかで梁啓超が台湾人に「非武裝抗日」の理想を説いたことに言及している。この来訪は重要な歴史事件になりうるが残念なことに文献が不足しており完璧に説明することができない。〈百年前的大墩旅人〉、《大墩文化》より引用。2011年11月、王派仁文、台中市政府文化局出版。
28. 《台中一中八十年史》参照。台中一中出版、1995。
29. 〈日治時期電影的文化建制:1927-1937〉(日本統治時代映画文化制度)、卓于綉、2008、国立交通大学社会與文化研究所修士論文。
30. 同上。本段文章はp.39より。台湾文化協会が《台湾新民報》にて劇場がなすべき社会教化の実施が難しいかの理由を描写しており、「日本実業家と殖民政府との間の協力関係は台湾民衆が社会教育をうける空間を着実に奪っており、高価な入場券、利益を目的とした放映プログラムの選択、そして資を持てるものが享受できる特権は何度も何度も台湾民衆の啓蒙事業を邪魔している」と述べている。
31. 〈豊原街に劇場新築計劃〉、《台湾民報》、第219期、昭和三年七月二十九日
iv. 上記の点を受け、呉子瑜が《台湾新民報》の取材時にこう述べている。「自宅裏の3900坪あまりの土地を南台中美観地帯の建設のために提供し、まず美麗で壮観な大舞台を建て、ついで舞台を中心として広く様々な娯楽で南台中の繁栄を取り戻す。舞台で営利を求めるものではない」註32。ここでは「南台中の繁栄を取り戻す」とあり、すなわち駅前・駅裏の不均等な発展の事実を提起し「舞台で営利を求めるものではない」の一言は、上記の台湾文化協会の漢人有力者グループの社会提唱者の主張とも合致する。総じて、呉子瑜の劇場建設の目的は「脱植民地・反抗行動」と明白に言っているものではないが、実際劇場建設の行動で当時の殖民統治者の不平等な都市計画に反対し、社会教化の目的があった。
v. 対日反抗行動——台湾人アイデンティティの漂流の軌跡:呉子瑜は日本の統治に不満を抱き、天外天劇場の経営で日本政府への非協力運動を展開した。たとえば「皇民化期間」は苦心して台湾語発音で映画解説註33をしたり、防空非常時期には目の覚めるような赤のペンキで屋根を塗ることで日本政府を挑発註34したりした。聞き取り調査によると、天外天近くの立徳街の街屋の壁にはまだアメリカ軍による空襲の際、天外天の屋根の色のせいで機銃掃射を受けたあとがあるとのこと。屋根はすでに様々な要因で時代の変遷のなか取り壊されているけれども、この日本殖民に犯行する歴史の証拠は、古蹟・歴史建築審査基準の「重要歴史事件または人物との関係」に合致するに足るもので、日本殖民に反抗する台湾人の歴史の証拠である。
vi. アジアの孤児——台湾民族意識の時代を映すもの:駅裏の漢人有力者の命運はそれぞれであるが、一言でいうとその命運は「アジアの孤児」註35で、相矛盾する国・民族アイデンティティを抱いている。たとえば清朝時代に台湾省城を建てた呉鸞旂総理の一族はとっくに商売で大陸、台湾、香港に出向いており、呉子瑜が若いころは主に中国にいて、民国初年の軍閥政治にかかわっていた。中華文化復興に対する憧憬から、呉家は孫文の革命や軍閥呉佩孚註36に資金援助をし、戦後は「梅屋敷」を「国父史蹟館」に修復するために天外天劇場を売却してしまった註37。また林獻堂、林子瑾、林烈堂、蔡蓮舫等は中華文化アイデンティティに基づいて反抗行動に携わり、当時の台湾人の「アジアの孤児」として台湾の地に足をつけ、日本に反抗し中華に思いをはせる時代の縮図の証拠であって、台中有力者の共通の歴史としてのみならず、台湾の漢人有力者が共有する当時の歴史と悲哀であり、この過程でこれにより売り出された天外天劇場は、まさにこの一人の台湾人の命運の重要な証拠であって、古蹟・歴史建築審査基準の「重要歴史事件あるいは人物との関係」、「稀少性があり、再現しがたい」等の要件に合致するものである。
vii. 駅裏漢人有力者の脱植民地・反抗行動の最後の公共の証拠:漢人有力者は、中華民国政府の来台後、統治の交代、運命の違いから、多くは歴史の舞台から身を引くなど、境遇は異なるものだった。駅裏は漢人有力者生活エリアの証拠でただ瑾園、天外天劇場を残すのみで、呉鸞旂邸、林烈堂邸、丸山旅社等はいずれも歴史の波の中に消えてしまい、非常に残念なことに南台中の歴史はほとんど帰ってこない。天外天劇場は幾度もの用途変更を経てもなお台中駅の裏にあり、天外天劇場は駅裏の漢人有力者による脱植民地行動の最後の公共の証拠として、古蹟・歴史建築審査基準の「重要歴史事件または人物との関係」、「稀少性があり再現しがたい」といった点に合致し得る。
32. 同註7。
33. 《台湾日日新報》、1938年2月16日、05版、詳見図十一。
34. 同上註。
35.台湾籍作家呉濁流の名著《亞細亞的孤兒》(アジアの孤児)、は小説中の主人公の運命を用いて、台湾の日本殖民統治、戦乱に直面した運命、矛盾する国家・民族アイデンティティをなぞらえている。
36. 詳見《呉鸞旂墓園研究規畫》(呉鸞旂墓園研究計画)、p.82、台中県政府文化局、2005年。
37. 同註5。
10. 小括
i. 「8. 天外天劇場は台中の都市植民における不均等土地開発の重要な証拠である」というこの点について、いわゆる台中旧市区の不均等な駅前・駅裏開発などは、日本殖民の遺産が今日まで続いていることを説明し、駅前・裏を区分する植民的思想の現状はいまもなおほとんど変わっていない。天外天盛衰史とはすなわち駅裏殖民統治下の盛衰史である。
ii. 「9.天外天劇場は駅裏台湾人の脱植民地・反抗行動の重要な象徵である。」というこの点について、天外天劇場の経営者、漢人有力者は日本時代に殖民統治下における駅前・駅裏(北、南台中)の不均等な土地開発の現象に気が付き、劇場の建設、使用する語言、屋根を赤く塗るなど具体的な行動でしずかに殖民統治に反抗していた。これは当時の多くの漢人有力者の対日反抗行動と同工異曲で、ただ手段が違っていただけである。しかし漢人有力者は中華民国政府が台湾に上陸した際、統治の交代、運命の違いから、多くは歴史の舞台から身を引くなど、境遇は異なるものだった。駅裏は漢人有力者生活エリアの証拠としてただ瑾園、天外天劇場を残すのみとなった。天外天劇場というこの高度に公共性を有する建築は、駅裏の衰退でも駅裏に立ち続け、さながら漢人集落の精神的な砦であり、百年ちかくずっと日本の植民意識に導かれ、発展してきた北台中を見つめてきた!
11. 本案の再利用の可能性:天外天劇場は日本統治時代、そして戦後の都市変遷、拡張等をいくつも経た台中都市史であり、駅裏、南台中区域の衰退に伴い、転用(非劇場用途)されてきた。先にのべたように、「劇場本体の盛衰史はすなわち駅裏盛衰史であ」り、駅裏は開発の停滞のため、駅前エリアから遅れていることはすでに既成の事実となっている。いかに都市再生計画を通じてエリアの発展に影響させるか?本組合は2014年より台中駅周辺の文化歴史建築の文化資産についての報告と保存運動を行ってきており、都市デザインの理念を受け継いで周辺の文化資産としての再利用可能性、周辺の潜在力がある観光スポットと連携する「綠空鉄道軸線計画」を着想した。幸運にも2015年7月市政府の注目を得て旧市区重要政策となり、駅周辺新民街倉庫群、宿舍群は2016年初に台中市政府の市定古蹟・歴史建築の指定を受けた。「綠空鉄道軸線計画」が鉄道周辺文化資産再利用の可能性を高め、また駅前の「宮原眼科」の経験を参考に、新駅ゾーン(詳細は図二十八参照)、文化資産に内包される商業化の潜在力ないしは本案劇場空間の特色と利用性可能性を大いに利用したり、アート、劇場、撮影スタジオ等の撮影空間としたりすることで、空間の再利用がけん引されるほか、文化資産の再利用が駅裏住民の自尊心を高めてくれる。本案天外天劇場は古蹟・歴史建築審査基準の「建築史上の意義を有し、再利用の価値及び潜在力を持つ」に合致する。
38. 詳細は図二十九参照。
三、本文関連写真・資料解説は “過去一百年的台中:天外天劇場文化資產價值研究(歡迎轉貼)”参照
圖四:臺灣日日新報19330914南臺中櫻町に映畫演藝の劇埸新築 同地の資家吳子瑜氏が七萬餘圓を投じて
圖五:1933年09月15 日 臺中市吳子瑜氏 籌設近代式娛樂舘 經費按七萬三千圓 以圖南臺中之繁榮 |
圖六:臺灣日日新報 19340130 臺中の蓬萊劇埸吳氏の獨營に決定 |
圖七:臺灣日日新報 19350119 04版(tif) 本刊 全島聯吟大會籌備 諸進行續報 |
圖八:臺灣日日新報 19351209 05版(tif) 臺中電話 南臺中に出來る天外天劇場 來春一日から開演 |
圖十:臺灣日日新報 19360310 08版(tif) 臺中劇場開場 |
圖十一:臺灣日日新報19380216臺中に赤屋根 南臺中に聳立する天外天劇場の非常識、上映の映畫も 灣語で解說 國語普及に逆行 |
圖十三: 臺灣建築會誌。1932-05-18 。臺中市營娛樂館新築工事概要 |
圖十四:臺灣藝術新報社 1936-11-01臺灣藝術新報。天外天劇場吳氏の自營となる。 |
圖十五:
出版年(西元): 1935-03-15
期刊刊名: 詩報
主要題名: 天外天觀劇
出版單位: 吟稿合刊詩報社
專欄名稱: 聯吟慰勞會
內含以下作者:
1.子昭 2.幼春 3.德豊 4.逸漁 5.讓甫 6.棄民 7.小魯 8.仲衡 9.天狐 10.梓舟 11.燕謀 12.金福 13.一鳴 14.賛徽 15.步初 16.江西
以下為本文各詩篇篇名及作者:
1.輓許松齡社友 吳子宏 2.弔許松齡君詞友 林珠浦 3.喜晤紉秋先生 郭仙舟 4.次韻 張奎五、諸景雲、吳紉秋 5.歲暮感懷 謝景雲 6.春日感懷
姓名:齋藤辰次郎
經歷:土木建築請負業、文部省技手、朝鮮總督府、飯塚工務所技術部主任、新竹市役所、臺中市役所營繕課長、高等官七等
學歷:東京倉前高等工業學學(東京工業大學)
本籍:山形縣田川郡溫海村溫海
住址:臺中市老松町四ノ七名:臺灣人事態勢と事業界
頁太源數:131
出版年(西元):1942-12-27
出版年(日治):昭和17年12月27日
出版單位:新時代社臺灣支社
圖二十二:銀華新劇團開演前紀念照
照片係日據昭和14(1939)年位於櫻町(今復興路四段)的天外天戲院,銀行新劇團開演前的紀念合照。天外天戲院為台中士紳吳鷥旂清光緒18(1892)年間興建,為專供吳家招待友朋的戲館。日據時期繼續以劇場經營至戰後,改稱國際院戲院為電影院。
來源:《台中市珍貴古老照片專輯》第一集,出版者 台中市立文化中心
圖二十三:彰化銀行台中總行興建照片(1937) |
圖二十四:1975年的天外天,「國際戲院」轉為「太源冷凍廠」經營的第一年。(居民提供) |
圖二十五:1975年的天外天,「國際戲院」轉為「太源冷凍廠」經營的第一年。(居民提供) |
戰後附近居民於天外天劇場前合照(居民提供) |
戰後附近居民於天外天劇場前合照(居民提供) |
戰後附近居民於天外天劇場前合照(居民提供) |
圖二十七:1935年南台中鳥瞰圖,天外天劇場興建中,圖中區為顯示天外天劇場位於的南台中區域為漢人仕紳生活與活動場域。昭和10年4月21日,原圖出處:別冊1億人の昭和史。 |
圖二十八:天外天劇場位於新台中火車站正後方,於區位串連上極為容易。 |
圖二十九:綠空鐵道軸線計畫圖 |
天外天劇場外觀 |
廁所タイル |
artdeco |
放射狀鋼骨桁架 |
環形劇場、放射狀鋼骨桁架、天外天logo |
放映室 |
樑柱修飾邊 |
重錘式窗戶 |
樓梯樣式 |
吊燈 |
大門裝飾 |
門口地磚 |
天外天開幕酒杯 |
圖四十三:天外天周邊地緣關係 |
圖四十四:流籠 |
圖四十五:地下室 |
圖四十六:天外天LOGO |
圖四十七:天外天劇場繪製圖,鄭培哲提供 |
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